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多摩川水軍の任にあたった
「河野水軍」
『ポンポコ新聞』
第18号より(2004.8) |
喜多見には江戸氏にまつわる話が多く残され、家臣団の末裔という家が
少なくありません。河野家もその一つです。河野氏といえば河野水軍で
名高い伊予国(現在の愛媛県)第一の大族で、源義経に味方して壇ノ浦の
合戦(1185年)で活躍し、江戸氏同様、鎌倉幕府の樹立に一役買いました。
その後、江戸氏も河野氏も北条氏に仕えた縁で、互いに娘を嫁がせ合う
姻戚関係になりました。
河野氏は鎌倉時代から江戸氏の水軍を担当し、室町時代には
世田谷吉良氏の多摩川水軍の任にあたりました。足利尊氏と新田義貞の
遺児義興による武蔵野合戦後、義興が矢口(矢の口ともいわれる)で
謀殺された際にも河野水軍が関わっていたようです。
愛媛県には現在でも「江戸」という地名や苗字があり、江戸氏と河野氏との
縁による名残かもしれません。
―― 喜多見6丁目の河野通敬さんから伺いました。
イラスト出典:「風早歴史探訪」HP
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愛媛と喜多見のひそかな縁
『ポンポコ新聞』
第28号より(2007.6)
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日本全国には喜多見以外にも「喜多」のつく地名がありますが、
特に多いのが愛媛県です。愛媛といえば『ポンポコ新聞』18号でも
紹介した河野水軍が思い浮かびます。愛媛県喜多郡へ行く機会が
あったので、改めて調べてみることにしました。
1.江戸氏と河野氏の縁
史料から読み取れる最初の縁は江戸太郎重長(慶元寺にある銅像の人)と
伊予国(愛媛県)の河野通信が壇ノ浦の合戦で共に戦ったことです。
江戸氏が属する秩父一族には源義経の妻になった人がいますし、河野通信の
妻は北条時政の娘(北条政子の妹)です。その後、重長の孫が通信の孫・通有
に嫁ぎました。この通有と長男・通忠(当時14歳)は共に蒙古襲来(1281年弘安
の役)で活躍し、通有は対馬守に任じられています。河野氏の歴史を記録した
『予章記』で通忠は「大力勇アリ」「美名人耳ヲ驚ス」と褒め称えられています。
しかし、活躍もし長男でありながら、家督は異母弟(通有の孫という説あり)の
通盛が継ぎました。通忠はその後、今の大分県にある三島神社の宮司を勤めた
という説もありますし、江戸の太日川(江戸川)の水運を担い、その子・通貞は
信濃川の水運を担ったとも言われています。
2.今に残る縁
現在、台東区入谷にある三島神社は、河野通有が弘安の役後、神のお告げに
より大山祇神社を妻の出身である江戸上野に分霊したのが始まりで、宮司は代々
通有の子孫である河野氏が奉仕しています。時宗の開祖・一遍上人は通有の
従兄弟で、通有は物心両面で支援していました。愛媛県松山市にある一遍ゆかり
の繁多寺(五十番札所)の近くには江戸氏がかたまって現存しているそうです。
同じ松山市にある河野一族の氏寺・善応寺は通盛が京都東福寺を擬して創営した
ものですが、喜多見にある江戸氏の菩提寺・慶元寺は今の皇居の場所にある時は
東福寺という名でしたから、不思議な縁を感じます。喜多見には河野姓の方が
おられ、『慶元寺報』でも江戸氏家臣として河野氏の名が見え、系図に見える以上に
関わりがあったのではないかと思われます。
3.「喜多」の名
喜多見はかつて「木田見」や「北見」の字が当てられ、書物の中で「喜多見」の字を
見るようになったのは1559年です。愛媛では『日本三代実録』の中で866年に
「宇和郡を分けて、宇和・喜多2郡とする」とあり、古くからこの字が使われていたこと
が分かります。江戸氏と河野氏の縁が元で「喜多見」の字になったのでは・・・と、
中世に思いを馳せつつ、現在ほど交通が発達していなかった時代でも、
四国~九州~関東と全国を行き来し、様々な交流があったことに驚きました。
注:本文・関係図ともに、若干異なる説もある中から、
年代的に合うと思われる説を採用しています。
取材協力:善応寺、愛媛県喜多郡内子町教育委員会
参考資料:『慶元寺報』 『予章記・水里玄義』 『江戸氏の研究』
『愛媛県の歴史散歩』 『東京百年史』ほか
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繁多寺近くに江戸さん
み~つけた!
『ポンポコ新聞』
第38号より(2010.1)
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『ポンポコ新聞』第18・28号でもご紹介しましたが、
喜多見と愛媛は縁がありそうです。
松山市郊外にある繁多寺(50番札所)近くに江戸氏がかたまって現存して
いると聞き、行ってみました。繁多寺のご住職は「江戸さんというお宅ならたくさん
ありますよ」とのこと。近くにある、河野家代々の崇敬を受けていたという
桑原八幡神社へ行くと、寄進者として江戸重良、江戸馬太郎、江戸弘一などの
名前がありました。さらに付近を歩くと「江戸」の表札が出たお宅を3軒発見。
そういえば、JR松山駅があるのは松山市南江戸1丁目。
この話、今後も続きそうです。
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