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足元に眠る
喜多見の歴史



『ポンポコ新聞』
第13号より(2003.4)

 世田谷区は遺跡の数が23区内で最も多い300ヶ所余りを数え、
 喜多見地域は区内でも最も遺跡密度の高い地域です。
 喜多見の歴史を駆け足でたどってみました。

  崖線上から動物の動きをチェックしていた先土器時代
 今から数万年前、富士山をはじめとした関東周辺の火山群はさかんに噴煙を
 はき、火山灰を降らせ、人々は食料を求めてただ野山を歩き回っていました。
 この先土器時代の遺跡があるのは、喜多見陣屋遺跡のほかは、国分寺崖線上
 で帯状につながっています。最も旧いものは今からおよそ3万年前のものです。
 崖線下の湧水の確保や礫層からの礫の採取などとともに、彼らにとっては、
 狩猟の対象となる動物の動勢を一目で眺望できる地形的条件が重要だった
 ようです。

  食料のバリエーションが豊富になった縄文時代
 今からおよそ1万年前、長かった氷河期が去り、気候が温暖化しはじめた頃、
 煮炊きに使う土器が作られるようになりました。土器の出現により、それまで
 食べられなかったアクのある木の実や地下茎、球根類も食用に供せられる
 ようになり、食料全体のバリエーションが豊富になりました。同時期、人々は
 定住をめざした住まい(竪穴住居)を作りはじめました。

  稲作がはじまり、支配階級が登場した弥生時代
 今から約2300年前、大陸から稲作が伝来し、多摩川付近の沖積地に水田が
 作られるようになりました。4世紀末、大和地方に古代国家が形成されると、
 古墳をつくる風習が生まれました。砧中学校7号墳は5紀初頭に作られた
 多摩川流域唯一の前方後円墳、稲荷塚古墳は7世紀前半に作られた円墳
 です。この弥生時代から支配階級と被支配階級がわかれはじめ、大きな勢力
 を持った地方豪族が登場してきました。

  帰化人によって開発されていった古墳時代
 大化の改新によって「国郡の制」はあらまし整備されたものの、大和地方から
 見ればこの地域は最も未開な地方でした。しかし一方では、古墳時代から高い
 先進文化と農耕技術を持った帰化人が入植して、さかんに開拓をすすめていま
 した。「砧」という地名は、朝鮮半島からの帰化民が朝廷に納める布を、川原で
 たたいて柔らかくし、同時につやを出すために用いた道具から生まれたと
 いわれています。



先土器時代の石器が出たヨ
「宮之原遺跡」

『ポンポコ新聞』
第8号より(2002.2)

 2000年2月まで氷川神社といかだ道の間で行われていた遺跡発掘調査の
 結果が世田谷区教育委員会発行『宮之原遺跡Ⅱ』に掲載されています。
 先土器時代のナイフ形石器も出土したそうです。この辺りは縄文時代まで
 狩猟・採集の場でした。ここに初めて人が定住したのは古墳時代中期に
 なってからで、円形の古墳も発掘されています。
  
 出典:世田谷区教育委員会『宮之原遺跡Ⅱ』

 

有力な首長が存在
「中通遺跡の馬具」


轡の使用位置

出土した馬具

『ポンポコ新聞』
第39号より(2010.4)

 
  中通遺跡から実用品の馬具
 昨年11月、喜多見で出土した馬具が世田谷区有形文化財に新たに指定
 されました。平成12年6月から実施された喜多見中通遺跡(喜多見7―20)
 の発掘調査において古墳時代の住居跡から出土したものです。副葬品では
 なく実用品として使われていたと考えられます。

  関東地方最古
 轡(くつわ)は乗馬の際に馬の口にかませて使われるもので、鉄でつくられ
 ています。この形式の轡は、朝鮮半島南部で出現し、5世紀初頭には
 西日本に現れて5世紀中頃には東日本に広がり、5世紀末には消滅する
 とされ、全国で20例ほどが確認されています。喜多見の馬具は5世紀中頃
 の製品で、関東地方最古とされ、この集落を統率する有力な首長の存在を
 裏づけています。多摩川流域における古墳時代中期の資料として、また
 朝鮮半島との交流を示す点で重要です。

 ・ 写真は『せたがやの文化財』No.22と区役所の展示物より転載。
 ・ 参考資料:『せたがやの文化財』No.15・22

 




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