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江戸氏ってどんな人?


慶元寺にある
江戸太郎重長の銅像

『ポンポコ新聞』
第9,10号(2002)および
『喜多見散策案内』
第2版(2009)より


  いまの皇居に住んでいました
 いまの皇居は、以前、江戸城といって徳川幕府がありましたが、
 平安末までさかのぼると、関東一の大福長者と呼ばれた江戸氏が
 居館を営んでいたところです。

  鎌倉幕府から賜ったのが喜多見
 江戸氏は、源頼朝の武蔵入国に助力、さらに源平の合戦、奥州征伐などに
 参戦し、鎌倉幕府の樹立に尽力した功によって武蔵七郷を賜りました。
 その一つが喜多見です。15世紀半ば、何らかの理由で江戸庄を離れることを
 余儀なくされ、喜多見へ移住しました。

  豊臣秀吉軍と戦う
 当時、江戸氏は後北条氏の旗本でした。1590年、豊臣秀吉と敵対していた
 後北条氏が小田原征伐によって滅ぼされると、江戸氏も小田原城内に立て
 篭もり、秀吉の軍勢と戦いました。

  喜多見に改姓
 一方、後北条氏に代わって関東に入国した徳川家康は戦役の後、旧家・名族
 の者達を家臣に取り立て、その優遇策を計りました。江戸氏は、家康の新しい
 居城の地・江戸をその姓とすることを憚って喜多見に改姓しました。

  綱吉の側用人になる
 五代将軍綱吉の時代には、側用人になりました。側用人というのは、常に将軍
 のそばにあって大老や老中との取り次ぎを行なうものです。綱吉が1685年に
 「生類憐れみの令」を出すと、喜多見氏は御犬総支配という役につき、喜多見に
 “お犬様”の小屋を設けました。1686年には2万石の大名にまで出世しています。

  御家断絶
 しかし1689年、新たに昇進した側用人による政敵粛清の動きのなか、一族の
 刃傷事件に連座して失脚し、一族は追放、家臣は浪人したり帰農したりしました。

  今に伝わるもの
 喜多見氏の陣屋は、須賀神社の南側あたりに構えられていたと推測されています。
 慶元寺はかつて江戸城内紅葉山にあったものが江戸氏とともに喜多見に移った
 もので、境内には江戸氏の墓があります。氷川神社の二ノ鳥居は喜多見氏が寄進
 したもの、神饌(しんせん)の梅干は喜多見氏が堺の南宗寺から梅の木を移し変え
 たことに由来します。そして、喜多見氏家臣団の末裔と伝えられている家には
 齋藤・香取・森・城田・小川(敬称略)などがあります。

 参考資料:
 世田谷区教育委員会『喜多見』、世田谷区郷土資料館『世田谷の歴史と文化』、
 世田谷区『せたがやゆかりの人』、世田谷区郷土資料館『喜多見の古寺古仏巡り』



 関連情報:
 
 喜多見駅前商店街にある村田電器のご主人・村田百仁さん、
 実は江戸氏家臣団の末裔なんだそうです。
 村田電器/世田谷区喜多見8-16-11、tel.3417-5111
 『ポンポコ新聞』第10号より(2002.8)



実は江戸氏の親戚だった
「平将門」



『ポンポコ新聞』
第52号より(2013.8)

 喜多見の歴史を語る際に欠かせない江戸氏は、
 桓武天皇や、平姓を授けられ東国に土着した高望王の
 流れをくむ名門で、親戚には平将門や平清盛もいます。

 江戸氏につながる良文は、甥の将門が領地をめぐる
 一族の争いで国香らに襲撃された際に援護する間柄
 でした。将門はその後朝敵となり討伐されましたが、
 江戸氏は将門を剛勇無双の祖神として崇め、民衆も、
 関東の政治改革をはかり命をかけて民衆たちを守った
 と語り継ぎました。将門伝説が定着したのは、江戸氏の
 働きによるものが大きいという説もあります。

 将門を合祀した神田明神は、
 戦国武将が武運祈願するところとして、江戸時代には
 江戸総鎮守として重視されることになります。

 
江戸氏の祖・重継と
江戸太郎重長


歌川広重
「南品川鮫洲海岸」
重継と重長が見ていた
日比谷はこんな風景
だったようです。

『ポンポコ新聞』
第53号より(2013.10)

  今の皇居に館を築いた重継
 『ポンポコ新聞』第52号でご紹介したように、江戸氏は桓武天皇の流れをくむ
 名門で、親戚には平将門や平清盛もいます。
 平安時代半ば以降、中央の貴族は国司に任命されても任地に赴かず、
 実質的な国務はその地に居住する役人によって行われることが多くなりました。
 平良文の孫・将恒は秩父に本拠を置いて秩父氏を称し、重綱(江戸太郎重長
 の祖父)は武蔵国留守所惣検校職という統括役を担っていました。
 息子達は、秩父から流れ下る荒川や入間川沿いに進出して畠山氏や河越氏
 を称し、河口では重継(重長の父)がはじめて江戸氏を称しました。
 中世には日比谷の入江が今の皇居の近くまで深く入り込んでいて、
 重継の館は海に臨む皇居東御苑の旧本丸台地にあったとされています。

  源頼朝を阻んだ富豪、重長
 源頼朝が伊豆で平氏打倒の兵を挙げた後、安房から武蔵国へ入ろうとする
 のを阻んだのが重継の子・重長で、同族の豊島氏・葛西氏らの説得で降伏し
 双方の妥協が成立しました。
 源頼朝が太井川・古葛西川・墨田川の三本の大河を渡って武蔵国に入るために、
 重長は三日で漁船と西国商船それぞれ数千艘ずつを集めて浮橋を組んだ
 と伝えられています。
 東国にとって江戸は東国最南端の経済活動の中心地であり、
 重長は交通・運輸・貿易を担い、武士というより自衛のために武力をもつ
 富豪であり、そのため重長は『義経記』の中で「大福長者」と表現されたようです。
 その後江戸氏の子孫は、多摩川沿いの木田見(喜多見)・丸子・六郷、
 平川河口の柴崎(大手町)、古川沿いの飯倉、目黒川沿いの渋谷に分散、
 さらに1420年の記録で六郷・渋谷・丸子・中野・阿佐谷・板倉・桜田・石浜
 ・牛島・国府方・柴崎・鵜木・金杉・小日向・蒲田などに分散しています。
 しかしこうした所領の細分化も惣領である江戸氏の力が弱まった
 原因とされています。

  行楽地の紅葉山と日枝神社・慶元寺
 現在、永田町にある日枝神社は重継が河越荘から山王社を館近くに
 勧進したのが始まりで、喜多見にある慶元寺は重長が父・重継の菩提のため
 建立したのが始まりです。
 慶元寺前身の東福寺があった皇居内紅葉山は田畑もあり梅・桜・桃の咲く
 行楽地でしたが、徳川家康が入国し江戸城が拡張されてからは
 一般人の近づけない山になってしまいました。
 日枝神社はその紅葉山へ移されていたため、お参りできず困る
 と人々が訴えたことから今の国立劇場付近に移され、
 大火を機に現在地に移りました。
 日枝神社は今、皇室の崇敬篤い皇城鎮護の神となり、
 六月の山王祭は神田祭とともに江戸三大祭の一つとなっています。

  忘るべからざるもの
 麹町区(昭和22年に麹町区・神田区で千代田区となる)の区史に、
 「江戸が世界の大東京と発展し、麹町区がその中心として今日あるに
 至ったのは、この時江戸氏の下した種子(重継が江戸に館を築いたこと)
 の胚芽し結実したものであって、歴朝の御仁慈御高徳と共にその功績恩恵
 は吾等の夢寝にも忘るべからざるものであろう」と書かれています。
 また区史の中で、江戸神社は江戸氏が在来の牛頭天王を氏神として
 館近くに創建した後、江戸氏とともに喜多見に移され、今の須賀神社
 (通称:天王様)が本社で、神田明神にあるのは支社であろうと書いています。
 東京の歴史に大きな影響を与えた重継と重長、
 まさに忘れてはいけない存在です。

 参考資料:
 『麹町区史全』1935、『江戸氏の研究』1977、『千代田区の歴史』1978、
 『荒川区史上巻』1989、『江戸城と大名屋敷を歩く』1994、
 『新編千代田区史通史編』1998、『東京都の歴史』2010、
 日枝神社パンフ、ほか多数

 
 
江戸重長と同族です
「畠山重忠」


埼玉県深谷市
(写真:wikipedia)

『ポンポコ新聞』
第77号より(2022.9)



 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する
 畠山重忠は慶元寺に銅像がある江戸重長と同族です。

 1180年、源頼朝が挙兵したとき、父・重能は
 大番役として京へ行っていたため17歳の重忠が
 一族を率い、平家方として頼朝討伐に向かい
 河越重頼、江戸重長も参戦します。
 大敗した頼朝軍は千葉常胤、上総広常らを加えて
 進軍し、重忠は河越重頼、江戸重長とともに
 頼朝に従うことになります。

 しかし河越重頼(妻は比企尼の娘、娘は源義経の妻)、
 さらに武勇の誉れ高く清廉潔白な人柄で
 「坂東武士の鑑」と称された畠山重忠(妻は北条時政
 の娘)も内部の勢力争いで滅ぼされます。

 江戸氏については、所領を
 木田見(喜多見)、丸子、六郷、柴崎、飯倉、渋谷
 に細分化され分散していきます。

 




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