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雨乞い神事を行っていました
「内田橋」
(喜多見5丁目) 



『ポンポコ新聞』
第2号より(2000.11)

 喜多見診療所とシェルガソリンスタンドを結ぶ道と、次大夫掘公園の遊歩道
 が交差するところに小さな橋がかかっているのをご存知ですか?
 戦前まで、渇水で困ると青年達が歩いて大山まで水を汲みに行き、帰って
 くると橋の下の堀に入り、水を頭の上まで飛ばし、神主さんが橋の上で御祓い
 をすると不思議に雨が降ってきました。昔は木でできた橋で、昭和3年に現在
 のような石の橋に架け替えられました。少々痛みがみられますが、なんとか
 修理をして残していってほしいものです。



  現在の内田橋(左の写真とは逆の方向から撮りました)
  
 「内田橋」や「昭和3年」の部分はちゃんと残されていました。



こんな由緒があったのね
「喜多見の道」


いかだ道

田渕の庚申塔

登戸道沿いの知行院

『ポンポコ新聞』
第15号より(2003.10)

 毎日何気なく歩いている道ですが、その道に名前があるのをご存知ですか?
 いったいどんな歴史があるのか調べてみました。

  いかだ道
 大田区の下丸子付近から二子玉川、鎌田を抜けて、下宿から知行院の前を
 通り二の橋へのぼり、調布に達する道。江戸時代、家を建てる木は、青梅の
 山奥でとれる杉の木が使われ、毎日たくさんの木が、筏(いかだ)に組まれて
 多摩川を下りました。羽田の近くで江戸の材木商に筏を渡した筏師が、陸を
 通って青梅に帰った道が「いかだ道」です。筏師は喜多見の「念仏車」のある
 ところで一休みし、念仏車を回して道中の無事を祈りました。筏師が通る道
 には、だんご屋や酒屋、その他にもいろいろな店があってとてもにぎやか
 だったそうです。

  田渕通り
 田渕の庚申塔と民家園南入口の間を抜け野川に沿って滝下橋に向かう
 道。道の東側にはかつて田んぼが続いていたので、「田渕通り(田の渕を
 行く道)」と呼ばれました。

  登戸道
 江戸時代の正式名称は津久井往還。三軒茶屋から世田谷通りを経て野川
 の茶屋道橋や次大夫堀公園横の内田橋を渡り、宝寿院・知行院・須賀神社
 ・慶元寺の前、駒井、猪方、登戸を通って、山梨県の甲府へと通じます。
 また三軒茶屋からは青山を経て江戸へ通じ、近郊農村から農作物を運ぶ
 重要な道でした。



  田渕の庚申塔の今…
  
 【写真左】
   子どもの神としても、道しるべとしても古くから親しまれていた
   「田渕の庚申塔」は、丁重にお祓いされた後、
   次大夫堀公園民家園の南門を入った角のところに引っ越しました。
   『ポンポコ新聞』第24号より(2006.2)
 【写真右】
   さらに現在は正門を入ったところに引っ越しています。2016.6



次大夫堀とは?

現在の次大夫堀
『ポンポコ新聞』
第17号より(2004.5)
 

 1590年、徳川家康は小田原後北条氏滅亡後、豊臣秀吉の命により関東に
 移封されました。家康は農業生産の拡大のため小泉次大夫を代官に任命し
 多摩川の治水工事にあたらせました。
 1611年、15年の歳月をかけて完成した用水は今の狛江市和泉を起点に、
 多摩川の水を取り入れ、世田谷区、大田区、最後は東京湾に注いでいました。
 全長は約23キロメートルで、350余年の間周辺の農業・生活用水として
 使われました。正式には六郷用水といい、上流の世田谷領内を流れる部分
 に関しては、この土地の人々から次大夫堀と呼ばれていました。
 1988年、次大夫堀の一部を復元して次大夫堀公園が開園しました。

 

喜多見で起こった
保存運動


次大夫堀公園民家園の
正門正面にある
旧城田家「さかや」

『ポンポコ新聞』
第36号より(2009.8)
 
 喜多見には、慶元寺の三重塔が畑越しに見える風景や知行院の鐘楼が畑越し
 に見える風景など、歴史・民俗・農業・自然が一体となった、未来へ残したい
 大切な風景がありますが、今、町の姿が大きく変わりつつあります。その多くは
 民有地なのでやむを得ないことかもしれませんが、かつて喜多見では、大切な
 ものを住民の力で守ろうという運動があったようです。次大夫堀公園民家園の
 開園当時を知る、世田谷区教育委員会の石井榮一さんにお話を伺いました。

  喜多見の住民が動く
 次大夫堀公園民家園は二つの動きが元になってできました。一つは、民俗資料
 を保存しようという動き。慶元寺の檀家役員が中心となり、喜多見小学校開校記念
 式典行事の一つとして民俗資料展が計画されました。喜多見小学校の通学路に
 ある5町会の代表により資料展を開くための委員会がスタートし、地域の民俗資料
 約200余点を集め、昭和48年10月に一般公開されました。公開後、保管場所に
 あてる資料館建設を準備していたところ、江戸末期に建てられた茅葺き古民家の
 城田家主屋が取り壊されることになり、解体費用を慶元寺で負担し部材の無償提供
 を受け、古民家を資料館にする計画が進められました。もう一つは、江戸時代に
 つくられた次大夫堀(六郷用水)を保存しようという動き。かつてあった田畑が減り、
 いく筋も流れていた川が今の野川にまとめられ、ごみ捨て場になっていた堀を保存
 してほしいと、昭和51年、喜多見各町会長の連名で世田谷区議会議長あてに請願
 したことを機に、次大夫堀の保存と再現を中心とした公園が計画されました。
 農業用水として地域にさまざまな恩恵を与えた次大夫堀を残し、農村風景を再現
 できないか、そこに古民家を移築できないかと、別々に動いていた計画が一つに
 なっていきました。

  筏師たちがくつろいだ家
 古民家を移築するには文化財指定を受ける必要がありますが、城田家は解体された
 後でした。石井さん達は建っていた姿を知らない状態で、番付された材料を調べる
 ことになりました。調べてみると、家に入ってすぐに土間・板の間・中二階があるという
 一般の農家にはない造りでした。「さかや」という屋号をもち、慶元寺の過去帳からも
 農業のほかに酒屋を商っていたと思われ、民俗学的にも貴重なものだということが
 わかり、文化財指定を受けることができました。城田家は東側に登戸道、北側に筏道、
 その2本が交わったところで、斜向かいには知行院があるという、賑やかな場所に
 ありました。今、民家園正門の正面に見える面は登戸道側に面しており、中二階の
 部屋では、多摩川を下ってきた筏師たちが帰る途中で酒を飲みながらくつろいでいた
 のかもしれません。

  喜多見独特の意識、風景
 こうして喜多見住民の期待を受けた民家園が昭和63年11月に開園しました。
 石井さんに喜多見の特徴を伺うと「喜多見は緑が多く農村景観も残っていますが、
 元禄時代まで喜多見藩があったので、単なる農村ではないというプライドのような、
 喜多見独特の意識があるようです」とのこと、確かにそんな雰囲気を感じます。
 今、町の姿が変わりつつありますが、単なる農村でも住宅街でもなく、喜多見氏の
 家臣が帰農し、子孫が代々守ってきた、歴史的に意義のある場所ですから、せめて
 神社やお寺と畑が調和した象徴的な風景だけでも守られるよう願っています。

 参考資料:
 世田谷区教育委員会『甦った古民家 第3輯 次大夫堀公園の記録』2003.3

 




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