祷善寺を探せ!
井の頭の池にある弁天堂
この本坊が大盛寺
昭和61年10月
解体前の大盛寺本堂
写真:三鷹市教育委員会
(圓住院本堂と似ています)
『ポンポコ新聞』
第51号より(2013.5)
<参考>
圓住院本堂
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江戸名所図会は、江戸時代後期の天保年間に斎藤長秋・莞斎・月岑の
三代にわたって書き継がれた江戸と近郊の絵入り地誌、挿図は長谷川雪旦
によるものです。喜多見についても、氷川神社、祷善寺、慶元寺が描かれて
います。今は無き祷善寺、一体どのようなお寺だったのか探してみることに
しました。
江戸名所図会より、右上が「祷善寺」
祷善寺の由緒
祷善寺は、1533(天文2)年、江戸景福軒呂顕(門重)、江戸摂津守常先により
氷川神社の別当寺として神社の北に創建されました。知行院は1588(天正16)
年に開山されたこの寺の末寺でした。別当寺(べっとうじ)というのは、仏教が
興隆した時代に表れた本地垂迹(ほんじすいじゃく)説により、日本の八百万の
神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)である
とする考えで、「神社はすなわち寺である」とされ、神社の境内に僧坊が置かれ
て渾然一体となっていました。別当寺が置かれた背景には、戸籍制度が始まる
以前の日本では、寺院の檀家帳が戸籍の役割を果たしたり、寺社領を保有し、
通行手形を発行するなど寺院の権勢が今よりも強かったことがあげられます。
祷善寺は1868(明治初)年の廃仏毀釈で廃寺となりました。世田谷区の資料に
よれば、「廃寺後、本堂は井の頭の大盛寺に移した」とあります。今も現存して
いるのか、行ってみることにしました。
本堂は見つかるのか?
井の頭の池に朱塗りの弁天堂がありますが、その本坊が大盛寺で、弁天堂
向かいの階段を上った所にあります。残念ながら本堂は昭和63年に竣工
したもので、祷善寺との関係も分かりませんでした。調べてみると、大盛寺が
明治2年に火災に合い翌年再建したことが分かりましたが祷善寺との関係を
示す文書が見つかりません。一方、祷善寺の本堂が明治6年に喜多見小学校
の前身「研精学舎」に使われたと書かれた資料もあり、年代が合いません。
もしかしたらと知行院のご住職に伺ってみると、「大盛寺の前の住職と父が
親しかった」「大盛寺が祷善寺の本堂だから見に行けと言われて昭和30年代
に見に行った」とのこと。また三鷹市では、解体前の昭和61年に文化財調査で
撮影した写真が見つかり、当時のご住職から、祷善寺の部材をもらってその
まま移築したと聞いていたことも判明しました。これらから、本堂は大盛寺へ
移され、研精学舎に使われたのは境内にあった他のお堂だと考えられます。
祷善寺の名残り
祷善寺の名残は他にもあります。本尊の薬師如来は知行院の本尊となりま
した。慶元寺にはこれとは別の小さな薬師如来が移され秘仏となりました。
狛江市駒井町、京王ストア裏にある圓住院は、祷善寺の門徒で隠居寺でした。
また前述のように明治6年、廃寺後のお堂を借りて研精学舎が創設され、
14年、そのお堂を造り直して喜多見小学校(後の砧小学校)が開校しました。
そして、祷善寺、知行院、大盛寺ともに深大寺の末寺・・・、そんな関係を
たどると、新たな世界が広がってきます。
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